第170回(2023年下半期)芥川賞受賞作の『東京都同情塔』を読んだよ。
芥川賞って、どんな作品が受賞するの?
芥川賞は、ざっくり言うと「純文学」「短編」「新人」の賞だよ。
ちょっと小難しい作品が多いかも。
ぼくは、第148回(2012年下半期)受賞作の『abさんご』で完全に挫折したよ。
挫折した芥川賞でしたが、『東京都同情塔』を読もうと思ったきっかけは、ポッドキャスト。
そこで紹介されていた、「物語の背景」に興味を持ったからです。
📖『東京都同情塔』(九段理江/著 新潮社 2024年)紹介
2020年に東京オリンピックが開催されたもう一つの日本。
ザハ案の国立競技場が建築された東京に、犯罪者に寛容な新しい形の刑務所「シンパシータワートーキョー」が建てられることになった。
寛容になれない建築家・牧名沙羅が、シンパシータワートーキョーのコンペに挑む。
興味を持ったのは、「ザハ案の国立競技場が建築された別の日本」という物語背景。
1か所が変わったら、派生していろいろな変化が起こると思うのだけど、そういう「変化がどう描かれているのか」に興味を持ちました。
(文章生成AIを使っていることでも話題になりましたね)
でも読んでいるうちに、他のところが面白くなっちゃった。
実際に読んでみて興味を持ったのが、「分断」の書かれ方です。
分断その1:カタカナ語による分断
物語の中で登場する「シンパシータワートーキョー」。
犯罪者を「まっとうに生きる機会を与えられなかった、同情されるべき人たち」というように意味づけし、その収容施設として登場します。
困ったときのカタカナ語
建築家の牧名沙羅はシンパシータワートーキョーのコンペに参加するのですが、外国語由来のカタカナネーミングに違和感を持ちつづけます。
沙羅は、外国語由来への言葉への言い換えについて、次のように分析しています。
単純に発音のしやすさや省略が理由の場合もあれば、不平等感や差別的表現を回避する目的の場合もあり、それから、語感がマイルドで婉曲的になり、角が立ちづらいからという、感覚レベルの話もあるのだろう。迷ったときはひとまず外国語を借りてくる。すると、不思議なほど丸くおさまるケースは多い。
『東京都同情塔』九段理江/著 新潮社 2024年 ※赤字・太字はほん太による
ぼくが注目したのは、「不平等感や差別的表現を回避する目的」という部分。
日本語そのままよりも、「なんとなくふわっとマイルドに」なっている言葉ってあるよね。
不平等や差別的表現に限らず、深刻な意味を持つ日本語を言い換えることで、「なんかいい感じ」になることってあると思います。
終末医療をターミナル・ケアと言い換えることで、「明るい施設で穏やかに過ごす」ようなイメージが強まりませんか?
猶予期間をモラトリアムと言い換えることで、ちょっとニヒルなカッコよさが出ちゃってませんか?
物語中でも、犯罪者について「ホモ・ミゼラビリス(同情されるべき人びと)」という呼び名への言い換えが提唱される場面があります。
彼らの出自や境遇について「不憫」「あわれ」「かわいそう」という同情的な視点を示すのです。
嫌悪するより、同情したほうがいいんじゃないの?
お互い、気持ちが楽でしょ。
それはそうだね。
でも、どこか見過ごしている部分があると思う。
本来の“質感”からの分断 カタカナ語の弊害
うさ井さん。
「終末医療」「猶予期間」「犯罪者」という言葉から、どんな感じを受ける?
「終末医療」は、もう助からない感じ。「終末」の語感が強いから。
「猶予期間」は…誰かを待たせているような…ちょっと焦る気持ちになる。
「犯罪者」は、悪いことした人。ホモ・ミゼラビリスのほうがマイルドだと感じる。
うん。漢字だと重いイメージになりがちだよね。
それを外国語由来のカタカナ語にすると、別な意味が見えてくる。
でももともと、いくつかの側面を含んだ言葉なんだよね。
それなのに、体から影だけ剝がすみたいに、もともとあった側面だけちぎり取っちゃう。
これが、カタカナ語の弊害だと感じたよ。
カタカナ語が登場することで、「今まで気づかなかった側面が見えてくる」という良い面があります。
ただ、カタカナ語だけが前面に出ることで、もともと日本語で表れていた“質感”が、奥に引っ込んでしまうようなことがある気がします。
「犯罪者」を「ホモ・ミゼラビリス(同情されるべき人びと)」という呼び名にしたとします。
「犯罪者」の呼び名であれば、「自分には理解のできない、頭のおかしい行動をした人」というふうに、憎悪や嫌悪のみが強調されるでしょう。
もう一方の呼び名が現れることで「あぁ、あの人は家庭環境が良くなかったんだな。」という考えが生まれ、心の中の憎悪を和らげたり、自分の家庭づくりに生かしたりすることができます。
これが、「今まで気づかなかった側面が見えてくる」というところ。
では、「ホモ・ミゼラビリス(同情されるべき人びと)」という呼び名だけが使われるようになった場合。
心穏やかな世界にはなるかもしれません。
しかし、「犯罪者」に対する憎悪や嫌悪が無くなれば、再犯防止のための力が小さくなるでしょう。
人間って、良くも悪くも、日ごろたくさん使う言葉の印象を強く受けます。
一方の呼び名を長い期間使い続けることで、もう一方の言葉が持つもともとの“質感”が見えなくなる危険があるのではないでしょうか。
ぼくが「犯罪者」という言葉の“質感”だけを信じ、
うさ井さんが「ホモ・ミゼラビリス」の“質感”だけしか認めていなかったとしたら…
お互いの言っていることが理解できなくて、いつもより激しくほん太くんを罵るだろうね。
お互いの言っていることがわからなくなるって、「バベルの塔」みたいだよね。
(…いつもより激しく罵ると言った?)
分断その2:「多様性」の裏の顔 “破壊”
『東京都同情塔』の物語に登場する、沙羅とは別のキーパーソンとして拓人というイケメンが登場します。
拓人が多様性について、こう語ります。
多様性を認め合いながら共生するのは、とても素晴らしいことに違いない。けれどそのときの僕の目に映ったのは、見間違えようもないくらいの、どのような異論も認められないほどの、圧倒的な破壊だった。
『東京都同情塔』九段理江/著 新潮社 2024年 ※赤太字はほん太による
この部分は、物語の大きな展開が進んだ後に出てきます。
(ネタバレしたくないので書きませんが、「ホモ・ミゼラビリス」の思想が進み、物理的に後戻りできなくなったような状況です。)
多様性っていうのは、認め合ってつながることでしょ。
それなのに破壊って、どういうこと?
“非寛容”の締め出し
もし、うさ井さんが、命が脅かされるような犯罪の被害者になったとして。
加害者に対して、どう思う?
うーん…。五体をバラバラにするね。
迷うのは、五つ以上の何個にバラバラにするか。
どのみち、バラバラにはするよ。
あ、うん…真剣に考えてくれてありがとう。
被害者感情って複雑だよね。
でも、犯罪者を「同情されるべき人」としている世の中だと、罰を与えろって言いにくいよね。
「多様性」は素晴らしいことです。
いろんな意見があるのは、世の中を豊かにします。
でも、100人中99人がAという意見だとして、あなた1人だけB意見だったら?
とても言い出しにくいですよね。
みんなが「多様な人が等しく存在すべき!この人は同情されるべき人!」と言っているのに、あなた1人「罰を与えて!」とは言い出しにくいですよね。
そんなことを言うと、みんなから“非寛容”のレッテルを貼られそうです。
“非寛容”なあなたは、誰にも気づかれないように、そっと自分を押し殺すかもしれません。
このように「多様性を認めろ」という無言の圧力は、人1人を破壊するのです。
「多様性を認めろ!」という押しつけは、一番多様性を認めてない気がする。
意見の違う人を「いないことにする」って、悪質な分断だと思ったよ。
おわりに 分断の世界での心がまえ
世界に何の影響力も持たない一市民が破壊に対してできることといえば、破壊後の新しい世界のルールを誰よりも早く覚えて、適応することしかないのだと、僕にはわかる。
『東京都同情塔』九段理江/著 新潮社 2024年
これは、物語中に出てくる拓人の考えです。
分断されないよう、適応する。
世界に対してできることは、これしかないのでしょうか。
なんか切ないな。
他に何かないの?
うーん。
ぼくなりの考えでいい?
心がまえ1 いろいろな側面があることを知る
「カタカナ語」のところで書きましたが、物ごとや言葉にはいろいろな側面があることを知るのは大事だと思います。
そうすれば、分断だと思っていたものが、実は同じものの裏表だったりします。
「いま知っていることがすべてだと思わない」って大事だよ。
さっき取り上げた「終末医療」という言葉も、字面がちょっと怖いかもだけど「苦痛を取り除いて生活の質を上げる」のを目指す医療なんだよ。
完全に字面で捉えていたよ。
思い込みって怖いね。
心がまえ1 相容れない人も、「ただ、いる」作法を身につける
「意見が違う場合、どちらかが世界から去らなければならない」なんてことはありません。
相容れない人でも、わざわざケンカしたり分断したりせず、「ただ、いる」ことができるようになると良いですね。
言葉の分断の象徴として語られる「バベルの塔」ですが、案外、自分で建てちゃっているのかもしれませんね。
分断の理由を考えることで、塔の建築を止めることができるといいですね。